吉備津宮縁起によれば、第十代崇神天皇の時、百済の王子温羅と云う者があった。両眼大きく、毛髪赤く、頬骨強大、身の丈抜群、その性勇敢、腕力絶大、常に仁義を守らず、日本を覗わんとする志があった。
本朝に来り諸州を歴覧する内、遂に吉備の国新山(後方の山)に登った。この地方の勝れたるを見てこの所に大門を起し、城壁を築き、矢倉を立てて城郭となして居を構え、時には西国より帝京に送る貢物を奪取した。近里に往来して人民を悩乱せしめた。時の人この城郭を鬼の城と稱し恐れた。
天皇勅して大吉備津彦命を派遣して之を征伐せしめられた。即ち彦命は兵数千を率いて東の方吉備の中山に陣し、西の方は日畑西山(楯築山)に出て石楯を築き甲兵を引きい鬼の城に向かい温羅と戦った。彦命、矢を放てば温羅の矢と空中に噛合い海中に飛び入る。
其の所に宮を建てて矢喰宮と云った。之が今日の矢喰神社である。
彦命再び千鉤の矢に大矢二筋を番え発したところその一矢は喰合って前の如く海中に飛び入ったが、他の一矢は温羅の左眼に命中した流血で流水の如くであった。其の所を名づけて血吸川と云う。
是に於て温羅は雉となって山中にかくれたが、命は鷹と化して之を追うた。次には鯉と化して血吸川に入ったので命は鵜と化して噛んで之を揚げ、その所を名づけて鯉喰宮と云った。(東南2キロにあり)
温羅、遂にすい旗を垂れ峰刀を棄てて降ったとある。
以上は吉備津彦命にまつわる物語でこの地方に昔から語り伝えられている伝説である。
左側の砂川が血吸川で血吸石がある。当時このあたりは海であった。